アイスクリーム幸福論

 

 幸福とは何なのだろう。人間にとって重要な命題であるにも関わらず、これほど曖昧で定義のないモノもないだろう。ある人にとっての幸福が、別の人にとっても幸福であるとは限らない。

 しかし、おそらく人が生きる理由、人生の目的は幸福の追求だ。正体もわからない幸福を追求することが己の存在理由であるとは何とも皮肉な話だ。人間が可哀想になる。

 すべての物事に意味を求め、意味を見出し、勝手に得心する。いや、得心せざるを得ない。その過程でもがき苦しみ、心を傷つけ、命すらも危険に晒したりする。

 そして、多くの人は幸福が手にはいらない、と悲嘆にくれる。何が幸福なのかもわかっていないのに。

 幸福になりたいと願うのであれば、まずは幸福が何たるかを知らなければならない。それは他人が望んでいるモノではなく、他人が決めたモノでもない。そう、自分で見出したモノでなければならない。

 

 そんなことを考えながら、モールのフードコートに座り、アイスクリームを食べている人たちを眺めていた。すると、唐突に幸福は小さなカケラなのだということに気がついた。一つ一つは本当に取るに足らない小さなモノで、人はそいつを地道に集めていくしかないのだと。

 

 色とりどりのアイスクリームを自分でも食べてみた。とても甘い。

 『甘い」から得られる感覚はシンプルに『幸福感』だ。

 

 なぜかって?子どもを見ていればわかる。彼らが感じているものは間違いなく『幸福』だ。頭で考えてなどいない本能的な感覚だ。後天的な”不幸”をまだあまリ抱えていない彼らの反応は素直で本質的だ。ひょっとしたら、その感覚は刹那的なものなのかもしれない。食べ終わった隙から消え失せてしまうものかもしれない。けれども、『甘い』が現在形の間は確実に『幸福』なのだ。

 

 アイスクリームが幸福。くだらないかな?いや、存外幸福とはくだらないものなのかもしれない。大層な劇的なものが幸福だと思っていると、気づかずにこぼれ落ちていってしまう。大きくつかもうと手のひらを広げるのではなく、なくなってしまわぬよう小さくそっと掬い上げる。そんなものなのだろう。