死を認識できないプログラムの話し

 知っているヒトが亡くなった。ワタシのメンター的なヒトの後輩にあたるヒトで、個人的に近しい間柄ではなかったのだが、お世話にはなっていた。そのヒトがもういない。世間一般的にはぜんぜん亡くなる年齢ではなかった。最後に会った時もまったく普通だった。でも、もういない。

 すごく違和感がある。そのヒトは亡くなってしまったが、それ以外は今までどおりに全てが動いている。当然なのだが、ヒトがひとり亡くなっても世界は変わらない。実感がまったく湧かないので、自分の意識もさほど変わらない。いなくなったのに、何の喪失感もない。近しいわけではなかったからなのか?いや、どうもそうではない。現実感をもって実感できないのだ、死を。アタマでは理解をしている。悲しいと分類される感情を当てはめることもできる。でも、さっぱりリアルさを帯びてこない。

 訃報を聞いたとき、人生の理不尽さと有限感を突きつけられたのに、時間が経つとその感覚もなくなってしまった。自分の中のどこかが麻痺でもしているようだ。死をうまく捉えられない。

 ヒトは死をきちんと認識できないようにプログラムされているのではないだろうか?自分もいつか死ぬ。あのヒトもこのヒトもいつか死ぬ。知っている。よく知っている。でも、それについて切実に思っていない。フィクションのように、遠いどこかの話しのように感じていたりする。次の瞬間にも死んでしまう可能性があるということを、現実だと思っていない。

 

 ヒトは死をきちんと認識できない。そうプログラムされている。

 

 もし、死をきちんと認識できないようにプログラムされていなかったら、次の瞬間に死ぬかもしれないという恐怖に、ヒトは気が狂わずにいられるのだろうか?

 

 自衛のためのプログラム。みんな麻痺しているのだ。